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コラム・弁護士

 
   

パンドラの箱が開いた

穂積剛

2015年4月


弁護士 ・ 穂積 剛 1.おぞましき光景

今でも覚えているおぞましい光景がある。
大学生のとき東南アジアに貧乏旅行に行き、シンガポールからマレーシア行きの深夜電車に乗った。寝台列車ではなく、2等の硬くて狭い座席で揺られながら鈍行で進む電車だ。

鈍行だったせいか、この電車が駅で頻繁に停止する。停止すると10分か20分くらいは止まったままになる。そのとき、ショッキングな光景が繰り広げられるのだ。

電車が停止してしばらくすると、座席の下から大量のゴキブリがウゾウゾと這い出してくるのである。最初に気付いたときには驚いた。でっかいのからまだ小さいのまで、たくさんのゴキブリが床や座席の廻りを這い回っている。振動のせいか、電車が動いているときは物陰に潜んで出てこない。電車が停止すると突然活発になって這い出してくるのだ。気持ち悪くて、とてもではないが席に座ってなどいられなかった。

このようなゴキブリは、「陰の存在」である。害虫の王者ともいうべきゴキブリは、日のあたるところに出てきてはいけない魑魅魍魎である。そんな魑魅魍魎は、電車が停止したときだけ活動を開始する。本当は座席のすぐ裏に大量に隠れているのだが、普段は目にすることがない。電車が動き出してゴキブリたちが隠れたあと私は席に戻ったが、自分が座っているすぐ下にあんなおぞましい連中がいるというのは、想像もしていなかっただけに、非常に衝撃的だった。

 

2.歴史修正主義者たち

魑魅魍魎のゴキブリたちと同じくらい、私がおぞましいと感じざるを得ないのが「歴史修正主義者」たちである。「南京大虐殺はなかった」だの「従軍慰安婦は売春婦だ」といった事実に反する主張を平然と繰り返す連中だ。けれどもこのような連中は、つい最近まで表舞台に出てくることはなかった。

例えば最初に「慰安婦」が問題になり始めた1990年代には、産経新聞でさえ「慰安婦」の悲惨な被害を事実として報道していた。厳然たる歴史的事実を否定するような言説は、2000年代以降になって徐々に勢力を増すようになってはいたが、しかし明らかに少数派であり、表立って語られることはほとんどなかった。

それが明確におかしくなったのは、第二次安倍内閣が発足した2012年12月からだと思う。首相の安倍晋三は、あからさまに歴史修正主義者たちを政府の役職に登用するようになった。それに合わせて、これまでは陰に隠れて日のあたるところには決して出てこなかった魑魅魍魎たちが、表舞台に堂々と出てくるようになったのである。このときにパンドラの箱が開いてしまい、世の中の災厄が表に飛び出してきたのだ。本来なら絶対に出てきてはいけない醜悪な魑魅魍魎たちが、日のあたるところに次々と飛び出してきて世の中を闊歩している。実におぞましいことだ。

私はこういう魑魅魍魎たちが堂々と出てくるたびに、あのマレーシアでの経験を思い出す。こんな奴らは、本当なら表に出てきてはいけないはずなのに。

 

3.パンドラの箱の中の魑魅魍魎

その結果、今やこの国は戦後最悪の事態を迎えるに至っている。

日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略した事実が否定されようとしており、侵略に際して起こした数多の残虐行為も虚偽だとする言説がこの国に溢れている。「南京大虐殺がなかった」とか「従軍慰安婦は売春婦だ」とする言説など、その最たるものだろう。そのために現在に至るも、日本と韓国の首脳会談が行われていない。

正当な労働者の権利が侵害され、いくら残業をしても残業代を支払わなくていいというホワイトカラーエグゼンプションも導入されようとしている。そもそも欧米など先進諸外国に比べても、日本人の労働時間がどれほど常軌を逸して長いのかは常識の部類である。しかも労働者の「過労死」が大きな問題になっているのも、日本における大きな特質だ。それが実態であるにも関わらず、どうして長時間労働をさらに正当化するような制度を導入するのか。それだけですでに、論理的に理解できる範囲を完全に超越している。

言論の自由を大きく侵害する特定秘密保護法が施行され、これによって日本の「報道の自由度」ランキング(180カ国中)は、民主党政権時代の20位台から一挙に60位台にまで下落した。安倍自民党は憲法解釈のみによって集団的自衛権を容認して、今度は自衛隊を「我が軍」と呼んでみせた。沖縄では県民の総意を無視して、普天間基地の辺野古移設が強行されようとしている。こんなことが次から次へと起きているのは、国家としての危機を迎えている状態としか言いようがない。

さらに危険なのは、安倍自民党が憲法改悪にいよいよ着手しようとしていることだ。人民主権と天賦人権説を基礎として、国民が権力を縛るための国家の根本規範である立憲主義を、根底から破壊しようとしているのが自民党の憲法草案に他ならない。これは近代立憲主国家の自殺行為である。

魑魅魍魎はまさに、この国を根本から壊滅させようとするところまで来てしまっている。

 

4.「従軍慰安婦」を最初に書いた記者

朝日新聞において「従軍慰安婦」被害者の金学順さんの記事を最初に書いた植村隆さんに対するこの間の異常なバッシングも、パンドラの箱が開かれたことによって生じた醜悪な魑魅魍魎の一つだ。

植村さんは1991年8月と同年12月に韓国の元「慰安婦」について記事を書いたが、この記事が極右勢力によって「捏造」だとの攻撃を受け続けてきた。詳細はここでは省くが、確かにこの記事にはほんの些細なことだが誤解を招くような記述が存在していた。しかし訂正を出すような内容ではないし、どう考えても問題になるような記事ではなかった。

この記事が注目を集めたのは、元「慰安婦」として最初に名乗りを上げたことで有名な金学順さんに関する初期の記事だったからである。極右勢力は、そこに着目して植村さんに対する攻撃を執拗に続けた。けれども最初の批判は「記事に誤りがあるのではないか」というもので、「捏造」とまでは言っていなかった。

植村さんは自分の記事が批判されていることについて、勤務先の朝日新聞に対応を求めたが、朝日新聞社内では「内容に問題はない」という結論になったため、植村さんは特に反論することもせず、自分の仕事に没頭していたという。

そうしたところ極右勢力は、「何を言っても大丈夫」と勘違いしたのであろう、やがて堂々と「捏造記事」だと言い始めた。それでも植村さんは、勤務先の朝日新聞の方針に従って特段の反論を行わなかった。

 

5.週刊文春記事と脅迫状

植村さんは2012年から、札幌の北星学園大学で非常勤講師をしていたが、やがて大学で専任教授になることを決意して、公募で神戸松蔭女子学院大学の専任教授に就任することが決まった。植村さんは2014年3月末に朝日新聞社を早期退職することを前提に、前年2013年12月に同大学と雇用契約を結んだ。

弁護士 ・ 穂積 剛

ちょうどその直後の2014年1月、週刊文春に『“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に』との記事が出たのである。内容は、西岡力東京基督教大学教授が植村さんの記事を「捏造と言っても過言ではありません」と批判して、そのような問題ある記者が神戸松蔭女子学院大学の教職に就くことについて、揶揄する内容であった。

この記事の直後から、植村さんに対する猛烈なバッシングが開始される。就職予定だった神戸松蔭には批判と抗議と嫌がらせが殺到し、植村さんは大学との話し合いの上で就職を諦めざるを得なくなった。植村さんは職を奪われたのである。

さらに5月には、北星学園大学の方にも植村さんの解雇を求める抗議が押し寄せるようになる。5月と7月には学生に危害を加えるとの「脅迫状」までが送りつけられてきた。

このとき北星学園大学に送りつけられてきた脅迫状は、例えば次のようなものだった。

「あの元朝日(チョウニチ)新聞記者=捏造朝日記者の植村隆を講師として雇っているそうだな。売国奴、国賊の。植村の居場所を突き止めて、なぶり殺しにしてやる。すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」

 

6.植村記者の娘に対する中傷

週刊文春はこれにとどまらず、8月には続報として『「慰安婦火付け役」朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ』との記事を掲載した。この文春の記事では植村さんの記事を「捏造記事」と決めつけ、植村さんが北星学園大学での非常勤講師をしていることを「売国行為だ」と問題視する内容となっていた。

弁護士 ・ 穂積 剛

これによって北星学園大学には、9月には「爆弾を仕掛ける」との脅迫電話までかかってくるようになった。この電話をした人物は、のちに威力業務妨害罪で逮捕されている。

さらにもっと問題なのは、植村さんの高校生の娘までがバッシングの標的にされたことだ。娘はネット上で顔写真を晒されたうえ、次のように誹謗中傷されている。

 

「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。親父が超絶反日運動で稼いだで贅沢三昧で育ったのだろう。自殺するまで追い込むしかない」

「なんだまるで朝鮮人だな。ハーフだから当たり前か。さすが売国奴の娘にふさわしい朝鮮顔だ」

 

これほど醜悪かつ卑劣な連中が、この世の中に存在していると思うだけで怒りに打ち震える。深夜のマレーシアの電車の暗がりの中で、うごめいていたゴキブリどもよりずっとおぞましい奴らだ。こいつらこそ、パンドラの箱が開いてしまったことで出てきた魑魅魍魎の一つに他ならない。

 

7.植村記者による提訴

自分だけでなく大切な娘にまで襲いかかったこの異常な災厄と闘うため、植村隆さんは文藝春秋と西岡教授を被告として名誉毀損による損害賠償請求訴訟を提起した。私もこの弁護団に参加することになって、植村さんとも何度かお会いした。自分と家族を守るために立ち上がった植村さんは、覚悟と決意と確信に満ちあふれた尊敬すべき人物だった。

弁護士 ・ 穂積 剛

はっきり言っておくが、この訴訟が負けることはない。植村さんは必ず勝訴する。

これに対して西岡教授は、今になって「言論には言論で対抗すべきだ」などと言い出しているが、噴飯物だ。言論の域にあると言えるような批判にとどまらず、植村さんに対してさんざん「捏造」呼ばわりをしてきたのは極右勢力の連中の方だったのだから。それに起因して大学に脅迫状が送られ、脅迫電話がかけられて植村さんの娘まで激しいバッシングを受けてきた。それにも関わらず、さんざん煽ったこの連中が、卑劣な犯罪行為を止めさせるために何か行動を起こした様子はない。

結局彼らは、植村さんが反論しないのをいいことにさんざん「捏造記事」などと表現をエスカレートさせておいて、いざ反撃されると明らかに分が悪いものだから、今さら「言論には言論で」と逃げ腰になっているだけだ。家族を守るために植村さんが訴訟という手段に訴えたことを、この連中に批判できる資格などない。

 

8.安倍内閣の暴走

この国の悪しきパンドラの箱が開いてしまい、歴史の偽造から不当なバッシング、労働法制改悪や憲法改悪まで、まさにこの国はいま魑魅魍魎に溢れかえってしまっている。この状況を何とかしなければ、この国は極めて危険な事態に陥る。それにも関わらず安倍内閣の支持率が50%あるというのは、本当に狂気の沙汰としか思えない。

安倍内閣の暴走を、とにかく一刻も早く止めることだ。人為的な株価操作によって株価が高止まりしていることで景気がよくなっているかのように誤解しているのかも知れないが、このような政策は極めて怪しい。仮にこうした景気対策に効果があるとしても、それによってもっとずっと大切なことを犠牲にすべきではない。歴史認識問題も憲法問題も、わずかな景気回復と引き換えに犠牲にしていいような問題ではない。

この国はすでに、帰還不能点(point of no return)を通り過ぎようとしている。現在の状況は極めて危険だ。一刻も早くこんな状況を止めなければ、やがて日本全体が後悔しなければならない事態に陥りかねない。安倍自民党のような亡国勢力を、絶対に支持してはならない。

 

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