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コラム・弁護士

 
   

今夏の参議院選挙において、改憲勢力に決して投票してはならない

穂積剛

2013年5月


弁護士 ・ 穂積 剛

  1. 議院選挙での争点
    今夏に参議院選挙が予定されている。その争点は「憲法改正」であり、安部内閣の現在の支持率の高さを考えるなら、参院選でも自民党が得票率を伸ばすと予測されている。しかし、憲法「改正」を党是とする自民党を始め、改憲勢力に投票することだけは絶対に止めた方がいい。それはこの国の将来を確実に誤ることになり、取り返しの付かない災厄を招く危険性が極めて高い。
    自民党の憲法「改正」草案の問題点については、多くの人が警鐘を鳴らしその危険性を訴えている。私もその多くに賛同するところであるが、ここではあまり触れられることのない「憲法制定権力」の観点から、現行憲法の問題点と憲法「改正」について検討してみたい。
  2. 憲法改正手続規定
    安倍自民党が現在「改正」の対象としようとしているのは、憲法第96条の規定である。96条1項は「憲法改正の手続」について、衆参両院議員の3分の2以上の賛成でこれを発議し、国民の「過半数」の賛成で改正されるものと定めている。
    自民党はまずこの「3分の2」の規定を、衆参両院議員の過半数の賛成で発議がなされるものとし、また国民投票の「有効投票の過半数」の賛成を要するものと変更しようとしている。一見してわかるとおり、「憲法改正手続」をこれまでよりずっと簡単にしようというのだ。何故か。一度簡単にしてしまえば、今後も憲法「改正」することがラクになるからである。ではそれは、イケナイことなのか。
  3. 「硬性憲法」の規定
    通常の法律制定より憲法改正の方の条件を厳しく定めている憲法のことを、「硬性憲法」という。全世界の憲法は、現在ではほとんど全て「硬性憲法」だが、その「硬さ」にはいろいろな程度がある。アメリカ、カナダ、スペインなどは日本以上に「硬い」憲法といわれているし、韓国憲法の改正手続は日本と手続が似ている。
    それではどうして、憲法の改正手続は多くの国で通常の法律よりずっと「硬く」定められているのか。普通の法律は国会の決議だけで成立するのに、どうして憲法だけ「硬く」しなければならないのか。
    それは、普通の法律は立法機関である国会が国民に「守らせる」ルールを定めているのに対し、憲法は逆に国民が国家権力に対して「守らせる」ルールを定めるものだからだ。そしてそれは、「個人の尊重」と「立憲主義」という近代憲法の根本理念に立脚した根本規範だからである。
  4. 近代立憲主義の根本理念1 「個人の尊重」・「基本的人権の擁護」
    近代憲法の根本的かつ究極の理念は、憲法13条に定めた「個人の尊重」に尽きる。憲法13条は、
     「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
    と定める。この「個人の尊重」は、各人の生き方は各人が決めるものであるという個人の「人格的自律」に不可欠の権利のことであり、通常は「基本的人権」と呼ばれる。この「基本的人権」という権利は、社会における最高最上の価値として何よりも重視して守られなければならない。
    近代憲法においては、人間は「個人として尊重」され個人の「基本的人権」が最高価値として擁護されなければならないが、実際に社会生活を営むために個人は国家に対して統治権力を信託し、その負託を受けた国家が個人に成り代わって統治を行う政治制度となる。この場合に国家統治という負託を受けた国家制度は、その権力の源泉である個人の「基本的人権」を擁護し、個人を尊重する目的だけに権力を行使することで、初めてその権力行使が正当化される。そのために個人が国家に「守らせる」ルールを定めたのが、「憲法」という法規なのである。
  5. 近代立憲主義の根本理念2 「権力の抑制・制限」
    ところが「権力」というのは、常に濫用される存在である。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」との有名な格言にあるように、個人から権力行使の負託を受けた国家権力が個人の自由・権利を抑圧することのないように、国家権力を制限するルールを厳格に設ける必要がある。これが近代立憲主義の根本理念である。
    したがって近代立憲主義とは、「個人の自由・権利のために国家権力を制限することを目的として、憲法に基づいて政治を行うという原理」を指す。
    誰もが学校教育で習う「三権分立」も、国家の統治作用を「立法」「行政」「司法」の三権に分離独立させ、それらが相互に抑制して均衡を保つことで権力の濫用を防止し、もって国民の自由・権利を保障していこうとする統治原理となっているのである。
  6. 自民党憲法草案=「えせ憲法」
    これに対し、「個人の尊重」「基本的人権の擁護」を最上級の至高価値と規定しない「憲法」、あるいはそのために国家権力の行使を制限することを唯一最大の目的としていない「憲法」は、そもそも「憲法」の名に値しない「えせ憲法」である。
    自民党憲法草案では、憲法13条を「全て国民は、人として尊重される」と表現しており、「個人として尊重」されること(前述した「各人の生き方は各人が決めるものであるという個人の人格的自律」)を否定し、また「国旗国歌の尊重義務」(3条2項)や「国民の憲法尊重義務」(102条)といった国民の義務ばかりの規定を置き、個人の権利よりも「公益及び公の秩序」を上位に置く表現を多数定めている。このような自民党憲法草案は、近代立憲主義の根本理念をまるで理解していない「えせ憲法」の典型例と言ってよい。
    近代立憲主義についてこの程度の理解しかないようでは、司法試験を合格することもできない程度の低さである。
  7. 「憲法制定権力」とは何か
    このように憲法は、「個人の尊重」「基本的人権の擁護」という全世界的に普遍である最高価値を定めているからこそ、簡単に改正することが許されない。「個人の尊重」「基本的人権の擁護」という最高価値は、容易に変更していいようなものではない。また「権力は腐敗する」ものだから、法律と同じように立法府で簡単に変更できるようでは、権力者が憲法による縛りから容易に逃れて個人の権利を侵害することができるようになってしまう。
    しかし憲法は、誰かが定めたものである。私たちでない、過去の誰かがそれを定めた。自分が関与してもいないそのようなルールが、どうして一国の最高法規に勝手にされてしまうのか。そのことに疑問を持ったことがないだろうか。
    1946年1月13日に公布され、1947年5月3日施行された「日本国憲法」という法規が、国家の最高法規としての地位を認められているのは、それが「個人の尊重」「基本的人権の擁護」という最高価値を定めているからであり、それを実現するための統治制度として三権分立などの権力抑制のための「近代立憲主義」制度を規定しているからである。
    人類の根本的かつ普遍的な理念を定めたものだからこそ、それを定めた過去の国民はもちろん、現在の国民や未来の国民に対しても最高法規性を正当化できる。だから「日本国憲法」は、過去の一時期に定めたものであるにもかかわらず、その正当性を肯定できるのである。この正当性の根拠を、「憲法制定権力」という。
  8. 近代立憲主義の理念に沿った「改正」
    したがって、憲法は簡単には改正してもらっては困るが、「個人の尊重」「基本的人権の擁護」といった根本理念に反せずむしろそれを発展させる内容の改正、あるいは権力抑制のための近代立憲主義統治制度を合理的にさらに深化させていくような内容であれば、当然改正してもよいことになる。そして仮にそれができるのなら、憲法96条の定める「硬性憲法」の「硬さ」自体はもう少し緩めてもいいのではないか? 本当に良い内容なら、むしろ改正しやすくしてもいいのではないだろうか?
    例えば私は天皇制廃止論者だから、できることなら憲法を改正して天皇制を廃止したい。そうすれば憲法20条の関係では信教の自由をより保障できるようになるだろうし、憲法19条の定める思想・良心の自由が「君が代問題」で犯されるリスクもなくなる。天皇制タブーに起因する極右テロによって、言論の自由や集会の自由(憲法21条)が侵害されることもなくなるだろう。
  9. 近代立憲主義理念の国民的共有化
    しかし、現段階においての憲法96条「改正」は、やはり認めるべきではない。
    何故か。それは、近代憲法の根本理念である「個人の尊重」「基本的人権の擁護」が、現在のこの社会において普遍的かつ最上級の価値であるとの価値観が共有されるに至っているとは、とても言えないからである。近代立憲主義の根本規範である憲法による権力の抑制・制限という近代立憲主義の理念が、この国の国民によって理解され共感されるに至っているとは、やはり言えないからである。
    国民が近代立憲主義の根本理念を理解していない状況で憲法「改正」がなされれば、その内容は近代立憲主義を逆に踏みにじる結果に陥ってしまう。今回の自民党憲法草案が、冗談ではなく本当に成立してしまい兼ねない状況に陥っていることが、まさにそのことを示している。
    近代立憲主義理念を自ら作り上げてきた欧州諸国や、その成果の上に国を作ってきたアメリカ・カナダなどの諸国、また封建体制下から自分たち自身の手で自由と権利を獲得してきた韓国などとは、日本はこうした点が決定的に異なっている。私たちは未だに、近代立憲主義の想定する合理的な国民としての「憲法制定権力」たり得てないのである。
  10. 「押しつけ憲法」論
    近代立憲主義憲法としては、内容自体はさほど悪い水準とも言えない現在の「日本国憲法」は、残念ながら日本国民が自発的に発案して採択された「自主憲法」ではなかった。歴史的な経緯をみれば、明らかに占領軍によって押しつけられた「押しつけ憲法」である。「押しつけ憲法」だからと言って一概に悪いわけではないが、しかし施行後65年以上経ってもなお、憲法の根本理念(それは全世界の普遍的な価値である)が国民的な総意として共有されるまでには至らなかった。悲しいことだがそれが現実である。
    「日本国憲法」が日本国民の自発的憲法でないことは、憲法原案を作成した占領軍の側でも当然理解していた。だから日本に主権を回復させたあとに、かつての帝国主義者・軍国主義者たちがいつ舞い戻ってきて憲法を「改正」し、天皇を国家元首に戻して戦前の帝国主義憲法と同じにしてしまうかわかったものではないと占領軍は危惧していた。それゆえ憲法96条を「硬い」硬性憲法として定め、戦前への逆コースを防止しようと企図したのである。
  11. 非近代的立憲主義憲法の末路
    日本国民は、戦前の帝国主義憲法の下において自分たちが中国や韓国に対して何をやったのか、想像を絶する被害をアジア諸国にもたらした挙げ句自国民までも破滅に追いやった原因が何だったのか、そのことを自ら追求して徹底的に責任を明らかにすべきであった。
    実はそうした破滅的結果こそ、「個人の尊重」をせず「基本的人権の擁護」もしないで、国家権力の抑制・濫用防止という近代立憲主義を理念としなかった「大日本帝国憲法」による統治の末路である。その点を明確に認識することで、初めて近代立憲主義の心髄を日本国民が共有することができるようになる。そしてそのためには、戦後補償問題に日本国民が正面から向き合うべきことが必要不可欠だと考える。
    「侵略」や「敗戦」は、「天災」ではなく「人災」である。本来であれば、これだけの惨禍に向かい合わずして、戦後の再出発など図れるはずがなかった。それが実現できてこそ、私たちは本当の意味で「憲法制定権力」となることができるだろう。
  12. 改憲勢力に絶対に投票してはならない
    戦後補償問題に未だ向き合うことができず、普遍的かつ究極的価値である近代立憲主義の理念を国民的総意として共有することができていない現状において、憲法96条の「改正」など決して実行してはならない。したがって今夏の参議院議員選挙においては、改憲勢力に投票することが絶対にあってはならない。それが、近代立憲主義理念の求めるところである。


 

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